調所広郷の像(所在地:天保山町 松林の中)


幕末に近い文政10年(1827年)、薩摩藩の借金は五百万両の巨額に達していました。当時の藩の年収総額は十数万両であり借金の金利にも遠く及ばず、正に破産の危機にありました。時の島津重豪公は、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢し、藩財政の改革を厳命しました。広郷はその期待に応え、巨額の負債を解決するとともに、五十万両の蓄えまで残しました。また、西田橋等の甲突川五石橋や天保山の造成も発案の他、琉球を通じた中国貿易の拡大や国内各地との物流交易をはかりました。