「じいちゃんも、年をとってねえ。田んぼの見回りも若い頃のように行かないのよ。」祖母が、痛い右足をさすりながら、母と話をしている。
祖父母が住んでいるのは、藺牟田池を取り囲む山の一つの西側にある山間部である。そこで、昔から農業で生計を立ててきた。母が小さい頃は、みかんを栽培していたそうだ。しかし、みかん農業が増え、価格が下がってきたので、祖父は一時期、都会で仕事をしたこともあるそうだ。その後、年間を通して手をかけてイチゴの栽培にも取り組んだそうである。しかし、中腰の作業が多く、年をとると自然と植物という生き物を相手に思うようにうごけなくなってしまったのだ。今は、体力に合わせて、デコポンというみかん作りと米作りだけにしたそうである。
我が家は、お米を買ったことがない。それは、いつも祖父母の作った米を分けてもらえるからだ。今、徳島に住んでいる姉二人も、お米がなくなると祖父母に連絡して、すぐ送ってもらっている。
それが当たり前で、自分も特に主食の米に対する思いを深めたことはなかった。しかし、祖母と母の会話を聞いていて、田んぼを守る農家の跡継ぎがなく、近くの農家の人たちも年をとったじいちゃん、ばあちゃんたちが体の不自由さを抱えながら続けている事を知った。幸いにして、祖父母は、叔父家族と一緒に住んでいる。農協に勤めている叔父と役場に勤めている叔母である。いとこも三人いて、忙しい時期は、農作業の手伝いも土・日にやっている。
自分はというと、小学校の頃はよく、田植えや稲刈りの手伝いに行っていたが、最近は、母に任せてあまり祖父母の家に行く機会が少なくなっている。
祖母が
「悟(叔父)がいてくれるから、うちは、心配いらんのだけどね・・。年寄りばっかりの家は、大変なのよ」。
と、話してくれた。
米作りは、八十八の手間をかけて、育てるものと言われている。ぼくは、機械で植える田植えの苗運びくらいしか手伝えない。稲刈りでも、機械で刈り取れない角の稲をコンバインまで運んだりするくらいだった。しかし、自分の知らない時間が、そこには隠されていることを祖母から改めて、教えてもらった。土壌作りから育苗、田植えの後の水の管理や除草作業、追肥など、今でこそ機会化された部分もあるが、ぬかるんだ田に入るだけでも重労働だという。叔父は、自分の仕事の合間を見て、近所の手伝いも時折やっているそうだ。
今、祖父母が年老いて、叔父が主となり米作りをしてくれている。しかし、後二十年後自分はどんな米を口にしているのだろうか。そんな心配が頭をよぎった。「米作り」というと、田植えと稲刈りしか思い浮かばない。やがて自分の食料は、自分で調達しないといけない時代がやってくるのではないだろうか。その時、何処でどんな方法で、自給自足の生活が出来るのか。考えると不安になってくる。
田は、三年作らないと使えなくなるそうだ。今、その田が、減反や農家の高齢化により、耕作されなくなっていると聞く。一方で、昨日の新聞に何年かぶりに新規農業従事者が増えたとあった。就職難のため、そのまま農業の跡取りになる人も増えていると言うことだった。
他人ごとではなく、今回の祖母の話をきっかけに、せっかく田んぼがあるのだから、もっと積極的に米作りにも興味を持とうと思った。職業として、農業を考えたことはなかったが、日本人の主食、米作りを守り引き継いでいく人たちのいることを忘れてはいけないと感じた。
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