鹿児島の中でも、絶景の一つと言われている海の近くに住んでいたひいばあちゃん。ぼくは小さいころから「海のばあちゃん」と呼んでいました。「陸ちゃん、よく来たね。」とむかえてくれていたばあちゃんの笑顔は、今、写真の中にあります。ばあちゃんは今年の二月、白血病で亡くなり、この夏は、初盆となりました。い影に手を合わせると、最後にお見まいに行った日のことを思い出しました。
鼻に管を通し、声も出せないので目で気持ちを伝えようとする海のばあちゃん。口からは苦しそうに息をしていました。その様子から気持ちを一生けん命くみ取ろうとしている祖母たち。そんな姿を初めて見たぼくは、立ちつくすばかりでした。しばらくして、母にうながされたぼくは、腹水でぱんぱんにはれた体をさすると、意識がもうろうとしていたばあちゃんが、一瞬目をかっと開いてぼくを見つめました。そして、いつものにっこりした笑顔になったのです。でも、次の瞬間にはまた、苦しそうに目を閉じました。生きているばあちゃんに会えたのは、これが最後でした。
線こうの香りがただよい、目を開けたぼくは、い影の前に小豆やきなこ、そして、青のりに包まれたおはぎが供えてあることに気づきました。真っ白に光るお米を一つ一つ優しくにぎったおはぎ。おはぎは、海のばあちゃんや祖母にとって特別な思い出のあるものでした。
それは、太平洋戦争後のことです。ほとんどの家々では食料が少なく、生活も大変苦しかったので、おはぎを食べられることはめったにありませんでした。もちろん、祖母のうちもそうでした。しかし、祖母の祖母は、年に一度、たくさんの孫たちのためにおはぎを作ってみんなに食べさせてくれたそうです。祖母の兄弟だけでも七人います、孫たちみんなともなると一クラスくらいの人数がもしれません。
「自分たちの食べるものさえ大変なときに、これだけは毎年欠かさずしてくれてたよ。孫にとっては楽しみな日だった。」
祖母はゆっくりとそう言いました。
あまいものも手に入りにくいころ、祖母たちにとっての楽しみは、きっと祖母の母であるひいばあちゃんにとってもありがたいことだったと思います。きっとそんな感謝の心は次の孫への愛情として引き継がれたのでしょう。おはぎの味もひいおばあちゃんから母へ、祖母からぼくたちへとリレーされているのです。
ぼくはひいばあちゃんに供えられたおはぎと同じものを口いっぱいほおばりながら、
「うーん、おいしい!」
と言いました。い影の中でひいばあちゃんがこたえてくれたような気がします。
「陸ちゃん、よく来たね。たくさん、食べていきなさい。」
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